2022.03.28

いつにも増して注意散漫な気がする。金曜日は会社のエレベーターに乗って「変だな。動かないな。」とあたふたしていたら行き先階のボタンを押し忘れていた。土曜日はクレジットカードの暗証番号を間違えまくってロックをかけられた。日曜日は生卵を3つも落として割ってしまった。

今日はお式に参加して、特別何かをしたわけではないのに驚くほど疲れている。体力的にも、精神的にも。最後にお顔を見て、頬に触れたときの感触が忘れられない。ゴムに似ているというか、人形のようで。というのも、ただただ冷たかった。造形は見知った人のもので今にも目を開けそうなのに、温かみや血色がないだけでなぜか人間っぽく感じられなくて、人間が人間らしくあるというのは一体どういうことなのだろうと不思議に思った。

棺の中で眠っている人に話しかける人々を見ながら、彼とした「花に対して語りかける」話を思い出して、物言わぬ花といなくなってしまったその人を同列に見ている自分に気が付いた。自分にその感覚はわからないけれど、そうしている人々を見ていると、その人たちにはそうしたくなる程度の何かしらがあるように思えて。他の人が啜り泣く声が聞こえてくる中で、何も思わないわけではないけれど、自分が具体的に何を思っているのかはよくわからなくて、なんとなく泣いてはいけない気がした。その資格がないような。だからお式では泣けなかった。この先、徐々に理解できるようになるのだろうか。

簡易的に作られたお仏壇に、誰もいないときにこっそり手を合わせる。部屋を見渡して、この家にこれからずっと一人きりで住み続けるはずの、遺された人のことを考えた。「51年間連れ添って幸せだった」と言っていた。これまでの人生の倍以上の時間を誰かとともに過ごして、そして先立たれるのか。どう考えても耐え難いな。「大丈夫だ」とも言っていた。私ですら、あまり大丈夫じゃなさそうだとわかった。元々、自分の結婚観はその夫婦の在り方に色濃く影響を受けていたけれど、今回の出来事でまた考えさせられた。同年代と結婚の話をしていると、物事の始まりとして、夢や希望ばかりに焦点が当たる。でも、自分にとっては終わりのイメージが強くて、そして今日実際に1つの終わりを見て、この先も残された人の姿を通して終わりの続きを目にするのだろう。

自分が結婚してもいいと思えるくらい好きな人を失うの、普通に耐えられる気がしないんだけど。分かったうえでそれでも添い遂げることを選ぶのだろうか。なんか、お付き合いや恋人の概念がかなりふわふわしているのに、結婚の概念だけが明瞭になるのが少しばかり嫌だな。とはいえ、結婚したことはないのであくまで想像上のものではあるものの。

それにしても、会う会わないだけで言うとこの先もほぼ会える見込みがない人だったし、そういった意味では相手がいなくなったところで何も状況は変わらないのに、一体何がこんなに違うんだろう。ずっと緊張しているような感覚で、一人になるととめどなく涙が溢れてきたりする。思っていた以上に堪えているのかもしれない。