往時

去年の夏はつらいことが多く、時々弱音を吐きつつもめげずに何とか乗り切ったような形だった。そのときの状況を表してほしいと依頼されて、期限を切ってPCに向かって書き進めると、当時の感情が沸々と浮かび上がってきて陰鬱な心持ちになる。苦痛という灰汁を掬い上げて作った煮凝り。言葉で固めたもの。そんなものでも、段々と形になっていく。今の自分は、自身が感じたことを言葉を用いて形にできる。そのことに、ほんの少しだけ救われるような心地がする。

認めたものを提出して、依頼者に読んでもらう。「当初は手を入れる想定だったけれど、敢えてこれをこのまま渡そうと思う」と言われたときに、あの頃の労苦が少しでもより良い未来に繋がるならと、一握りの希望が見えそうになって、その気持ちを必死に押し止めた。これはあくまで祈りであって、願いでしかない。現実になることを望んではいるものの、過剰な期待はしたくない。何度も伝えるべきと思ったことは伝えた。それでも何も変わらなかった。変わらなかったから、私は書くことになった。時機はもうとっくに過ぎていた。

肉が生である可能性。

1週間前のこと、夜ご飯を外で済まそうとお店に入ったはいいものの、食べ始めるとなんと鶏肉が生だった。歯触りと臭いがおかしいと思い、ふと見ると一部が透明。さすがに生はないなと申告したら、取り替えてもらえることになった。カンピロバクターに当たったら嫌だなと少し憂鬱になる。

しばらくしたらお盆が運ばれてきて、代わりに食べていたものがすべて持っていかれた。中身の入った茶碗が消えて行くのを呆気にとられながら眺める。眼前には新しくなった定食。え、今からこれを食べるということ? サラダなんて一皿全部食べた後なんだけれど。驚きと焦燥と一抹の罪悪感。私が選択した行動の結果として、あの中途半端に残ったお味噌汁は捨てられるのか。もやもやを抱えながら、残すのも嫌だからすべて食べ切る。腹八分目で終わるはずが、九割五分に。夜にこれだけ食べるつもりはなかったのにな。

最大限の誠意といえば聞こえはいいが…とは思いつつ、お店の対応としてはこれで正解なのだろう。あのお皿だけ取り替えてもらったら、おそらく生肉が出てきたことへの感情のみが食後にも残っていたはず。それが全皿取り替えになったことで、大部分が驚きに塗り替えられた。物事に対する人間の感情は、得てしてより大きなものに上書きされていく。良いことも、嫌なことも。

それにしても、生肉の食感を思い出してしまった。肉が生である可能性、長らく忘れていたのにな。気にし出すときりがないことなんて世の中にいくらでもあって、なるべく遠ざけて少しずつ埋没させてもふとしたときに現れる。静かな水槽に沈殿した砂を思慮なく巻き上げられたような、そんな感覚。ブロッコリーにいもむし、鯖にアニサキス、生の鶏肉。日常に潜む、ささやかで言いようのない不快感。

2024.01.26

人間誰しも大なり小なり世の中の少数派の(というよりも多数派と相容れない)感性を持っていて、その傾向が強ければ強いほど他人との軋轢を生みやすく、日常生活が困難になってくる。昔から様々な形で断絶を味わいながらも、ある程度適応して無理にでも自分なりのやり方を探してきた。それは、追い付け追い越せと必死だった結果がもたらしたもので、何ならそうでもしないと生きていけないと感じていたからで、全くもってそうなりたかったわけではないけれど。だからこそ異なる観点を持っていると感じる機会があるのかもしれないと、そんなことを考えている自分をふと認めた。こうも肯定的に考えられるようになったのは、偶然の要素が大きいのだろう。運が悪くて、運が良かったから。足掻いた分だけ何かが蓄積されているだろうと思えること。生まれながらにそのような感覚を持っているように見える人も、壮絶な苦しみの末に獲得したのかもしれないと思えること。今はそのような感覚のない人でも、将来的には獲得できるかもしれないという希望を抱けること。

 

一月ほど前に言われた「良いことを教えてあげようか」の意味を、ようやく理解しつつあるように思う。最初は、その剣幕から私の振舞いについての叱責かしらと思ったものの、貰った言葉を何度も反芻して咀嚼して、字義通りだったと理解した。色んな人が、直接的にも間接的にも色んな形でヒントを与えてくれる。その意味は自分で考える必要があるけれど。物事を多面的に捉えられるようになれば、一つの事象から得られる情報量が増し、世界がより豊かになる。今思えば、予測可能性から程遠い人間の多様性が苦手だったのに、結局自分を救ってくれたのはその多様性だったのだから、何とも皮肉な話。

「言葉を大切にする仕事で、取扱いにより一層注意すべき」という主張について、全面的に首肯する。表層だけの、中身のない言葉を使いたくない。折角時間を割くなら意味のある仕事をしたいし、その性質上、それだけ力のある言葉を扱えなければ話にならない。そのためには、自身の言葉が立脚する確固たる考えを持つことが大切で、より醸成させていくために多くの経験を積みたい。まだ二の足を踏んでしまうところはあるけれど、自分の欠けたところは熟知しているうえに、これまでの経験則も重くのしかかっているから、それはそれで仕方ない。それでも少しずつ前進して、納得のいくところまで突き詰められたとき、初めて本当の自由を獲得できるのだと思う。自由とは、選べることで、選ぶことだから。

2023.12.07

今日も今日とて蜜柑を食す。皮を剥いて、残った薄皮ごと実を口に放り込み、咀嚼しながら甘い果汁をたんと味わう。とてもおいしい。

歯が三房目の薄皮に触れたとき、ふと、皮に包まれた粒の塊が圧力により徐々に形を変え、崩れ、中から液体が溢れる様子を想像した。次に、市販のグミやあまり質の高くないジュースの、香りが主体の「オレンジ味」を思い出す。それから漸くのこと、自らの口腔内にある今にも食べられそうな蜜柑に意識が戻る。噛む。途端に何を食べているのかよくわからなくなった。この味は何なんだろう。情報がまとまらず上手く認識できない。これは蜜柑のはずだったのに、間違いなく蜜柑なのに、蜜柑の味って何だろう。所謂ゲシュタルト崩壊を、味覚において初めて経験した。

2023.12.03

予定もやりたいこともやらないといけないこともそこそこ詰まっていて、若干の不安がある。気力の面から破綻しないだろうか。まあ、何とかなるのかしら。これまでも何とかやってきたし。

大胆な試行錯誤ができた良い11ヶ月だった。残りの4週間、健やかに過ごせたらいいな。と願いながら、蜜柑をもしゃもしゃと食べる今日この頃。今年の蜜柑は小粒で食べやすく、甘くておいしい。

2023.10.28

久々に筆箱を認識して、その劣化具合に少し引いた。買い換えようかと一瞬考え、筆箱が必要な場面を思い浮かべようとする。正直なところ、ない。外だと三色のボールペンが1本あれば足りるし、家ではボールペンの他に譜読みで鉛筆を使うくらい。高校から使い続けたぼろぼろなものが残っていることにも得心がいく。やっぱり支障が出るまではこれでいいかもしれない。

2023.10.08

高校生のとき、クラスメイトがある動画を見た感想を大声で口にしていて、それを周りの仲のいい人が窘めていたことがあった。私もわりとその話を聞きたくなかったため、注意してくれた人に対して感謝していたが、当の本人は何も理解できていない様子に見えた。

ただ、なぜ咎められるのだろうか。大多数が不快に感じるからといって、少数の何も感じない側にいる人の言葉を封殺してもよいものだろうか。どちら側にいるのかは、単なる偶然でしかない。当たり前のようにタブーとされていることは、なぜタブーなのだろうか。本来的には理由を考える必要もなくタブーであり、その理由を考えていること自体が感覚として少しずれているのだろうか。色々疑問が頭をもたげて、しばらく考えていた記憶がある。時折、窘められている理由をまったく理解できていないであろう彼女の表情を思い出す。私も同じだった。周りの人の行動はたまたま私にとってもありがたいものではあったけれど、その理由まではわからなかったから。

今朝、ニュースを見ながら思索に耽っていると急に答えらしきものが出てきた。個々の人間の受容できる刺激には限度がある。それが、いずれは現実として受容せざるを得ないものだとしても、知った方がいいことだとしても、自分のペースで受け入れることができないと精神状態が悪化したり、心の傷になったりする。だから、彼女の他者の心情に配慮しない行動を周りは窘めた、ということだと思う。10年ほど心に残っていた割には、答えはシンプルなものだった。