2024.01.26

人間誰しも大なり小なり世の中の少数派の(というよりも多数派と相容れない)感性を持っていて、その傾向が強ければ強いほど他人との軋轢を生みやすく、日常生活が困難になってくる。昔から様々な形で断絶を味わいながらも、ある程度適応して無理にでも自分なりのやり方を探してきた。それは、追い付け追い越せと必死だった結果がもたらしたもので、何ならそうでもしないと生きていけないと感じていたからで、全くもってそうなりたかったわけではないけれど。だからこそ異なる観点を持っていると感じる機会があるのかもしれないと、そんなことを考えている自分をふと認めた。こうも肯定的に考えられるようになったのは、偶然の要素が大きいのだろう。運が悪くて、運が良かったから。足掻いた分だけ何かが蓄積されているだろうと思えること。生まれながらにそのような感覚を持っているように見える人も、壮絶な苦しみの末に獲得したのかもしれないと思えること。今はそのような感覚のない人でも、将来的には獲得できるかもしれないという希望を抱けること。

 

一月ほど前に言われた「良いことを教えてあげようか」の意味を、ようやく理解しつつあるように思う。最初は、その剣幕から私の振舞いについての叱責かしらと思ったものの、貰った言葉を何度も反芻して咀嚼して、字義通りだったと理解した。色んな人が、直接的にも間接的にも色んな形でヒントを与えてくれる。その意味は自分で考える必要があるけれど。物事を多面的に捉えられるようになれば、一つの事象から得られる情報量が増し、世界がより豊かになる。今思えば、予測可能性から程遠い人間の多様性が苦手だったのに、結局自分を救ってくれたのはその多様性だったのだから、何とも皮肉な話。

「言葉を大切にする仕事で、取扱いにより一層注意すべき」という主張について、全面的に首肯する。表層だけの、中身のない言葉を使いたくない。折角時間を割くなら意味のある仕事をしたいし、その性質上、それだけ力のある言葉を扱えなければ話にならない。そのためには、自身の言葉が立脚する確固たる考えを持つことが大切で、より醸成させていくために多くの経験を積みたい。まだ二の足を踏んでしまうところはあるけれど、自分の欠けたところは熟知しているうえに、これまでの経験則も重くのしかかっているから、それはそれで仕方ない。それでも少しずつ前進して、納得のいくところまで突き詰められたとき、初めて本当の自由を獲得できるのだと思う。自由とは、選べることで、選ぶことだから。