昨日疲れて書きながら寝落ちした。

 

右耳にかすかな違和感を感じて耳鼻科に行ったところ、急性低音障害型感音難聴と診断された。しっかりとした聴力検査(純音聴力検査と言うらしい)を受けて結果を見ると、明らかに低音だけ聞こえにくくなっているらしい。

気が付いたきっかけは、長めの耳鳴りだった。仕事をしていて20秒程度続く耳鳴りを感じ、その数日後、聞こえ方は異なるもののもう一度長めの耳鳴りが来た。耳鳴りが突発性難聴の前触れである可能性があるという知識を持っていたため、直後に耳の周りを触って聞こえ方を確認した。なんとなく右耳の方がうっすらと聞こえにくい感じがして、病院に行こうと思ったが、別のことに気を取られてすぐに忘れてしまった。

月曜日に右手の人差し指が痒くなり、火曜日には無事腫れて赤くなった状態が続いた。水曜日の今日、起床して病院に行った方がいいのかなと一瞬考え、耳の状態に違和感を覚えていたことを思い出した。2つの病院で予約を取り、呼び出し時間が重なったらどうしようとどきどきしながらも杞憂に終わり、無事2軒とも回れた。薬がもりもりと処方されて少し気分が滅入る。指の腫れは単なる虫刺されの可能性が高いとのこと。今となっては虫に感謝したいくらい。

 

「難聴」と仰々しい名前だが、日常生活における弊害は今のところ一切ない。医者が言うには、聴力が下がってはいるものの、未だ標準の域内にあるらしい。他の音域と聞こえ方に一定の乖離は見られるが、極端な支障は出ていない状態。この難聴は、予後は良いことが多いものの、ストレスがきっかけになるらしく、再発の可能性は一定程度あるとのこと。再発を繰り返すと蝸牛メニエール病に進化する可能性(ポケモンみたい)があり、1週間薬を飲んで治らなければまた病院に来てねと言われた。

ストレスの原因に心当たりはあったので、とりあえずなるべく解消できるよう働きかけたけれど、どうなるのだろう。不安に思っても仕方ないし、そこまで不安には思っていないつもりだけれど、本当に不安に思っていないのか、それとも不安であることすらよくわかっていないのか、今は区別がついていない。明確に自覚できているのは、難聴の薬がこれまで飲んだものの中で最も不味いことだけ。液体でやたらと量が多く、やたらと不味いのに、1日3回も飲まなければならない。スポーツドリンクを想起させる人工的な甘味料に、後味が残る苦味。飲みにくければ水やスポーツドリンクで割って飲めと言われた理由がよくわかる。つらい。

「難聴」と言われたとき、やっぱりそうなのかと納得する自分と、現実味がなくて受け止め切れていない自分の両方が存在していると感じた。検査結果の紙切れ1枚を両手で持って、見方も知らないのに記号を目で追いながら「治るんですか。」なんて、そんなテンプレみたいなことを言う日が来るとは思っていなくて。結局治る可能性が高いと分かってからは、病名や機序、処方する薬の作用など色々と教えてもらえて楽しかったけれど。治ると言われてなければ、現実に引き戻されることもなかったのだろうか。

 

よかったことを考えよう。今回の件で3つわかったことがある。

1つ目は、無理をすると順当に身体に不調という形で現れること。正直、今回は無理をした自覚があって、疲労が溜まり、自分でもこれ以上の無理はやめようと決心した矢先の話だった。事前に忠告や心配をしてくれていた方々にちょっと申し訳ない。阿呆だからやらかすまで気が付かなかったけれど、さすがに理解した。体がわりと丈夫ではあっても、やっぱり無限ではないんだな。

2つ目、聴力検査の結果を見て気がついたこととして、どうやら私はわりと耳がいいらしい。そのおかげかはわからないが、聴力が下がっても今のところ日常生活に困っていない。ラッキー。

3つ目、仕事の後に人と話し、難聴のことと休日の過ごし方を伝えたところ、そもそもそれは休日に精神的に全然休めていないのでは?と言われ、少し思うところがあった。休みの日の過ごし方を見直すきっかけになりそう。土曜日に予定を入れ、日曜日にのんびりする作戦でしばらく過ごしてみる。休むって、改めて考えると何を指すのかよくわからないかも。

 

耳が聞こえにくくなること。正直、耳には悩まされていることも多い。内外問わず、大きな音から些細な音まで色々な音が飛び込んでくる。大きなエンジン音、電車と地下鉄の音、他人が調整したテレビの音、話し声、雨粒と傘の衝突音、衣擦れ、キーボードの打鍵音、エアコンの音。どうしてもだめなときがあって、気分が悪くなって降車したり、音が気になって眠れなくなったりすることもある。最近はノイズキャンセリングのヘッドフォンを着けて移動するようになり幾分かましだが、総合すると結構つらいことが多い気がする。というか、メリットがあまり思い付かない。聴力が良いからその低下にも気が付けた、とかだと御の字かな。

今回の検査で元々ある程度耳がいいことと、下がった聴力でも未だ標準の枠内にあることがわかって、もしかすると不快な音の一部は既に感知できなくなっており、今の方が幸福度が上がっている可能性があるのではないかと考えた。でも、それはなんか嫌なんだよな。知らず知らずのうちに何かがなくなるって、なんか寂しい。つらい思いをした分得たものが全くないなんて、そう思いたくないだけかもしれないけれど。それでも、私の一部が間違いなく欠ける感じがして。欠けても私なんだろうけれど。何だかどうしようもなく寂しい気分になってきた。