肉が生である可能性。

1週間前のこと、夜ご飯を外で済まそうとお店に入ったはいいものの、食べ始めるとなんと鶏肉が生だった。歯触りと臭いがおかしいと思い、ふと見ると一部が透明。さすがに生はないなと申告したら、取り替えてもらえることになった。カンピロバクターに当たったら嫌だなと少し憂鬱になる。

しばらくしたらお盆が運ばれてきて、代わりに食べていたものがすべて持っていかれた。中身の入った茶碗が消えて行くのを呆気にとられながら眺める。眼前には新しくなった定食。え、今からこれを食べるということ? サラダなんて一皿全部食べた後なんだけれど。驚きと焦燥と一抹の罪悪感。私が選択した行動の結果として、あの中途半端に残ったお味噌汁は捨てられるのか。もやもやを抱えながら、残すのも嫌だからすべて食べ切る。腹八分目で終わるはずが、九割五分に。夜にこれだけ食べるつもりはなかったのにな。

最大限の誠意といえば聞こえはいいが…とは思いつつ、お店の対応としてはこれで正解なのだろう。あのお皿だけ取り替えてもらったら、おそらく生肉が出てきたことへの感情のみが食後にも残っていたはず。それが全皿取り替えになったことで、大部分が驚きに塗り替えられた。物事に対する人間の感情は、得てしてより大きなものに上書きされていく。良いことも、嫌なことも。

それにしても、生肉の食感を思い出してしまった。肉が生である可能性、長らく忘れていたのにな。気にし出すときりがないことなんて世の中にいくらでもあって、なるべく遠ざけて少しずつ埋没させてもふとしたときに現れる。静かな水槽に沈殿した砂を思慮なく巻き上げられたような、そんな感覚。ブロッコリーにいもむし、鯖にアニサキス、生の鶏肉。日常に潜む、ささやかで言いようのない不快感。