頭が痛すぎて割れそう。何これ。熱はないのに。何かもらってきたのかな。

 

 

幼少期に触れられる相手は親、上の兄弟がいたらその人たち、祖父母を含む親戚あたりだろうか。人以外のものだとペットとかも該当しそう。まあ、何も限定したいわけでもないので、その実なんでもいい。

幼少期における人間は、日常的に接する相手が限定されている中で成長していくのであって、そういった環境で受ける影響には多大なものがあると思う。特に、生まれたばかりの子どもに接するのは親となる場合が多いと思っていて、なんというか、親との関わりを通して他者とは何かといった感覚を形成していくところがあると思う。愛されているという感覚、自分が望まれて生まれてきたという感覚。仮にそれらの感覚が親から得られなかった場合に、得られなかっただけならまだしも、真逆の感覚を持ってしまったら。自分が親になる可能性を考えたときに、真っ先に考えたこと。

プラスから始まっている人と、マイナスから始まっている人の感覚には天と地の差がありそうで、おそらく自分もどちらか一方から始まっている。ここで真逆の立ち位置にいる人に対してはその価値観に対してどうしても理解が及ばないように思う。実感を形成する経験がないのだから当然だけれど。少数派であればあるほど他者に理解されない経験を多くしている可能性が高くて、それって苦しいんだよな。他者を参考にすることも難しいから、真ん中目指してまで歩くのも一苦労で。自分はなんとなく理解できないものが多いことがわかっていて、それでも真ん中目指して歩いていかないといけないことを当然課された義務のように長年考えていた。先天的に獲得できなかったものは後天的に獲得するしかない。いつの間にか頭に染みついていた言葉。そういうものだから仕方ないだと思っていたけれど、今思うと結構しんどかったのかもしれない。

ところが、最近になってこれはこれで悪くないのかもしれないと思っている。端を知らないとわからないものがあって、その経験があるからこそ他人の言葉にピンとくる場面もある。以前塾講師のアルバイトをしていたとき、担当した生徒の言葉と表情からその心情を読み取れたのは、私にも近い部分があったからだった。去年はこれまで自分が触れてこなかったたくさんの創作作品に触れて、自分の経験をもとにがっつり感情移入できたことがきっかけで好きになった作品も多くあった。どれだけ螺子が足らなくても私は私でしかなくて、私以外の何かにはなれないし、ならなくてもいいのかもなって。私以外の何かになるのではなくて、私がなりたい私になることが大切なのかもしれない。そこまで考えたところで、やっぱり真ん中まで歩いてみたいと思った。真ん中まで歩いていけば、自分と反対側から真ん中まで歩いてきた人のことも知ることができるんじゃないかって。

 

 

基本的にあまり自身のプライベートな話はしないし、年に1、2回会う程度でそこまで密な連絡も取っていないのだけれど、思い切って友人たちを頼って連絡してみた。皆心配してくれて、何なら忙しいのに時間も作ろうとしてくれて。なんか、かれこれ10年以上の付き合いになるのに、こうやって連絡を取ること1つ迷惑かなと思って少し躊躇った自分が情けないというか。そんなつもりはなかったけれど、これまで友人にすら心を開けていなかった部分があったのかな。

私を大切にしてくれる人のことを、私も大切にしたい。そうでなくとも、私が大切にしたい人を大切にしたい。何より、その前提として私自身が私を大切にすることが重要なのかもしれない。自分の気持ち。今どんな気持ちなんだろう。

 

 

唐突に思い至ったので、この半年ほどで思い出したことの一部を。あまりいい思い出ではないので、繊細な人や下手に感情移入できてしまう人は読まない方がいいかもしれない。

相手の都合と自分の都合を天秤にかけること自体を避ける傾向が自分にあることはなんとなく気が付いていて、それは昔から自分の拘りや考えが強すぎることを原因として、人と関わること自体わりとつらく感じていたことが影響している。何かを話す中で相手に泣かれると問答無用でこちらが悪者にされるのが、理由がわからないのに罪悪感だけは感じるのが特にストレスで嫌だったような記憶。何も考えずに思ったことを全部言っていることもあるけれど、人の気持ちに疎い自分が不用意に相手を傷つけてしまう可能性を考えたときに、相手と良好な関係を築きたいという気持ちと、自分の価値観とのバランスをどう取ればいいのか、ということ。相手が自分の気持ちをわかってくれると信用すればいいって、頭ではわかっているのだけれど。

昔、他人が私の主張について聞く耳すら持ってくれないと感じることが多く、何かを伝えることにあまり意義を見出せなかったことも関連しているように思う。自分の意見を伝えると否定され、黙っていると今度は何を考えているのかわからないと言われてそれも否定的に捉えられて、当時の自分はなんか本当にどうすればいいのかわからなくなったというか、「人」がよくわからなくなった。話してほしいと言われて正直に話したのに否定されて、一方で話さなかったらそれも違うらしい。一体何が本心なのだろうなって。結果的に自分の意見を否定されるよりかは黙っている方がましでだんまりを決め込むようになり、それからしばらくした後、特定の場面で自分の考えを話そうとしても言葉が出なくなっていることに気が付いた。所謂場面緘黙のようなものだったのかはわからないけれど、感覚的には話さないことを選んでいるというよりかは話せないに近い。ちょっと違うけれど、イメージとしては思考が強制的に止まるというか。そうなってしまうと、今考えているから待ってくれと伝えることも難しい。相手は私が何を考えているのかわからなくて困惑するし、私も伝えたいものがあっても伝えられないのはとても苦しい。場合によっては話さないことを非難される。言葉がわからない環境で日々を過ごしていたことはこの傾向に拍車をかけた。周囲の人が何を言っているのかわからないことに着目されがちだけれど、本当は何かを伝えたくても何も伝えられない環境なんだよな。経験していないとわからないかも。この時6歳くらいだったからとっくに克服したものだと思っていたし、まだ自分の中に残っているのは意外で、何なら忘れていた。再度経験するまで気が付かなかった。何とかしたいとは思いつつも、最後まで治らなかった。今何考えてる?って訊いてくれていたのに。他意はないと頭ではわかっているけれど、相手を意識していることに加えて、昔の訊かれ方にかなり近くてどうしても答えられなかった。何か話してとか、何を考えているのかとか、そういった質問。こういった傾向が出てきたら、話せる相手には自分からこのことを話して理解を求めてみればいいのかもしれない。

もしかすると、私の頭の中にあるものを上手く説明できていれば、相手の考えや気持ちを聞く姿勢をこちらが見せていれば、当時もそれだけで解決したのかもしれないな。子どもにそこまで求めないでほしいけれど。そうでなくとも、別にそうやって否定する人ばかりではないことを理解できればよかったのだけれど、あの頃はそれが一番わからなかった。とはいえど、私の言い方がストレートすぎて誤解されやすいのは今でも事実だろうし、尚更のこと自分の気持ちや考えを説明できるように努力した方がいいとは思っている。相手の気持ちや考えも尊重したうえで。そうしたら何とか克服できないかな。

脱線。他人に泣かれるのが嫌だった点について。今思えば、自分が泣き虫なのに泣くのが苦手だから、簡単にそうやって人前で振る舞えることに対しても複雑な感情を抱いていたように思う。苦手というか、喜怒哀楽どんな感情でも昂ずるとすぐに涙が出てくる自分のことが好きじゃなかった。こと人前で泣くことに関しては未だに恐怖に近い感情を抱いている。これについてはまだ文章に起こせるほど気持ちの整理がついていないけれど、今年中には書けるといいな。この1年ほど一人で泣きまくったせいで抵抗が薄れてきている気がするし、最近は自分の気持ちを知る1つのバロメーターだと思うと嫌悪感も少しずつなくなってきた。わかりやすいのもそれはそれでいいのかなとか。音楽とか、好みど真ん中のものだと鳥肌がたって涙が出てくるから顕著だし。そう考えるとおいしい食べ物を食べて泣くのもちょっとどうかなと思っていたけれど、悪くないかも。おいしいから仕方ないよね。少しずつ自分の気持ちを感じることができるようになってきたことも大きいな。泣くことって、気持ちを感じるにあたって大事な機能の1つなのかもなと思ったり。

人に話すことができる程度には今の自分から切り離せたというか、客観視できるようになってきたのかもしれない。9月あたりの色々思い出して眠れなくてつらかった時期も多少は報われただろうか。課題は山積みだけれど、少しずつ変われている気がする。今年が終わったときに、去年よりずっと好きな自分であれたらいい。