2022.12.31

今日は大晦日。何にも手につかないから、1年の振り返りを。

近親者が亡くなったり、知人が二度も事故って死にかけたり、自分も病院で経過観察を言い渡されたり。これまでの人生の中で最も死に近かった1年だと思う。まあ、とは言ってもこんなものだし、たぶんよくわかっていないのだろうけれど。本当はずっと近くにあるはずだよね。気がついていないだけで。

私は人のことを好きになれる人間だったんだなって実感したな。3年半付き合っても何も出てこなかった自分を見て、そういうものが元からないのかもしれないと半ば諦めていた時期もあったけれど、そんなことはなかった。先天的に得られなかったものは後天的に獲得するしかないけれど、いつ空から降ってくるのかわからないものだってあるんだな。傷が癒えた頃にまた時が来るのかもしれないけれど、しばらくはいいかな。人のこと、こんなに好きになれるものなんだな。

仕事は後半ちょっとしんどかった。私のペースで進められる仕事でないと難しい部分もあるのかもなと思ったり。一方で、とても大切なことに気付かされた。その意味で仕事を始めてよかったと思う。自分が関わったものが世に出て、様々な人に愛されていて。劇的な何かがある職種ではないけれど、こういった喜びは忘れないようにしたい。もっとこの先にあるものを見てみたいという気持ちが芽生えていることに、ここ数か月なんとなく気がついている。今の仕事である必要はないんだろうな。

大学時代の同期にも、そろそろ転職する人が増えてきたり、司法修習に進む人が出てきたり、結婚する人が出てきたり。色んな人生があるらしい。最近はかなり自身のキャリアについても考えている。というのも、自分の人生の使い途を考えたときに、人と添い遂げるルートが存在することを知ったから。以前は机上の空論に近く感じたけれど、それは現実にあるんだよな。誰かの隣りにいることも自身の幸福の一つの形になり得るのだと、身をもって知ることができた。仕事以外に大切なものはあって、すべて選ぶのは現実的には難しい可能性もあるだろうけれど、取り得る選択肢は多ければ多いほどいい。

幼い頃の記憶がどうやらまだ多くの影響を与えているらしいことにもなんとなく気がついた。特定の場面で話せなくなるというか、自身の意思と関係なく頭が止まる感じ、とうになくなったと思っていたのに。自分の気持ちに疎いのもおそらくそのあたりが関係していて、非常に根深い。思い返せば、そのことを指摘してくれていた人はこれまでにもいたと思う。何かがずっとあの時から止まったままだったのかもしれない。少しずつでもいいから変わりたいし、変わる必要があるとも思った。

変わったこともある。ブログを書き始めて何だかんだ1年が経過した。気持ちも考えも、それとわかって人に伝えることが苦手なのだけれど、抵抗はほんの少しだけ薄れてきている気がする。自分の考えを言葉に変換して、それでいて人に伝えなくていいというのは多少なりとも新鮮だった。それに加えて、意を決して話そうとしても口から出てこなかったから、話せるかどうかは二の次にしてまずは好き勝手に言葉にすることからだと思い直した。目を見て本音を話すのが怖いのは私の方かもしれないな。何はともあれ、今はそういったモチベーションで行っている。感情を言葉にすることにはまだ違和感があるけれど、それでも以前と比べると次第に実感のこもった私の言葉になってきていると思う。

そういえば、こんな辺鄙なブログにも時々訪ねてくれる人がいるようで。感情の殴り書きみたいな拙い内容でも見てくれる人が存在するということは、僅かばかりでも本当の私を知る人がこの世界のどこかには存在するということで。自身のことを人に上手く伝えられず、また諸事情あって肩書きめいたものを通して見られやすい私にとって、そのことは少なからず慰めとなっています。ありがとうございます。

時間もお金も、処分できる資源が限られている中で、自身が価値を感じているものに対して如何に触れるかという話。誰かとどうしても一緒にいたいなら、そうできるように働きかけた方がいい。あと何年一緒にいられるかわからないし、選ばなければ後悔する可能性が高い。仕事と恋愛と趣味がすべて大切なら、それらすべてを選べる方法を探せばいい。上手くいかなくても、自分が好きなものについて一生懸命な方がいいなと思ったし、大切なものは大切に抱えたままでいたいかもなと感じた。

高校生の時分に「あなたは諦めるのが早すぎるのよ」と恩師に言われたことを思い出した。当時はよくわからなかったけれど、少し理解できた気がする。諦めるとかじゃなくて、選べないのが当たり前だったからそんな発想なかったんだろうな。諦めるという言葉を知る間もなく、何かを諦めざるを得なくなったというか。もっと選べたら、もっと大切にしたいと思えるものも増えるのかもしれない。お金の使い方、時間の使い方、この先の人生を誰と過ごすのか、そういうものを選べるようになりたいかも。選択肢がないと正直な気持ちも中々出てこないようだから。未熟だな、私。

 

 

次にお付き合いするときは、頑張らなくても一緒にいられる環境にできればいいな。「一緒にいたい」が中心にある以上、遠距離恋愛は向いていないのかも。それに、会って顔を見て話すって重要なことだと感じた。人間関係の根幹だよな。ビデオ通話とか、もうちょっとやりようはあったのかもしれないけれど。本当はお互いが日常の中で緩く繋がっていられる状態が好き。ちょっとおいしいものを食べたり、ちょっと好きなところに足を運んだり、何でもない時に隣りにいられたら、いてくれたらそれでいいなって。会いたいときに連絡を取って、今から会いに行っていい?って言える距離感。同じ部屋で違うことをしていたい。時間と空間の共有。自分にとっての恋愛感情はそういうものだった。遠距離だから今は難しくても、いつかはそうなれたらいいなって。叶わないから、どこかで捨てないといけないのだろうけれど。

次とかあるのかな。理屈じゃない分響くというか、上手く割り切れないし落とし所が見えない。打算であれば、もっと良い条件の人がいるとかそういった話になるのかもしれないけれど、そういうものでもなかったから。なんか、本当に気持ちしかなかったな。いずれ腐り落ちてできた穴が塞がるのを待つしかないのだろうか。そうなるのだろうか。寂しいとかじゃないんだよな。何だろう、これ。また誰かを好きになれたとしても、その時の私は深く傷つく可能性を知っている私で。ここまで無鉄砲になれたのは、この1年ちょっとが最初で最後だったのかもしれない。あらゆる可能性に対して無防備すぎたというか、馬鹿みたいに傷ついたな。

恋愛って、結婚までいかなければそのうち終わるもので、結婚まで事が運んだとしてもいつかは死別するわけで。そうなることを理解してもなお、誰かに対して隣にいてほしいと思えたとしたら、伝えられたとしたら、ある種それは本物なのかも。今の気持ちも紛れもなく本物だけれど、一方で何もわかっていなかったなという感覚もある。今もまだわかっていないのだろうし。ゆっくりと沈んでいっているような気がする。底が見えない。

鐘の音が聞こえる。彼がにこにこしているのを見て嬉しいと私が感じたように、彼も私が隣にいることで何か思ってくれていたらいいなって思っていた。そんな未来はないということを、これから時間をかけて受け入れていくのかな。