2022.04.11

引越しと仕事で忙しくて、ちょっと疲れているかも。そんな中でもなぜか料理のモチベが上がっているのはいいこと。食べるの好きだし、おいしく作れるように身に付けたいな。昔、苦手意識が極まりすぎて、結婚するなら料理ができる人がいいな、と考えていた時期があった気がする。今は別にそうは思っていない。いつの間に変わっていたのだろう。

少し思ったこと。親によく言われる「料理は人に振る舞うのが上達の近道」という言葉。これまでは自分が興味なくとも、人のためだとモチベが上がる人もいるということだと理解していて、それなら元々食べるのが好きな自分にはあまり関係ないのではないかと考えていた。でもそうではなくて、味覚の異なる他人の意見を取り入れられるとか、(2、3人分なら)同じくらいの手間で自分含め多くの人のためになるからかも、と思ったり思わなかったり。前者はスキル、後者はモチベの向上に繋がりそう。些細な喜びを分かち合えるのであれば、それは確かに良いことかもしれない。気心知れた人と一緒においしいものを食べるの、何気にかなり好きなんだよな。前提が近いと、何に対して感想を述べているのかまだ理解できるから。たぶん自分が遠距離に向いていない理由の根幹はこのあたりにあるんだろうな。


最近本を読めていないのがつらい。全く読んでいないわけではないけれど、読みたいほどの量は読めていないな。早く諸々終わらせて、プライバシーが守られた空間と自分のペースを取り戻していきたい。引越しが済んだら、本棚を買って所有している本を整理しつつ、好きな漫画を全巻揃えたい。実家には元々のものが全巻あるし、折角なら今度は新装版にしたいな。漫画はかさばるから基本的に電子書籍か図書館でいいと思っているけれど、手元に置いておきたい程度に好きだから。帰省のときに時間が許す限り読んで、また新たな発見をして、心動かされて。何度でも夢中になれる作品に出会えたことをありがたく思う。それにしても初めて読んだときからもう15年ほど経っているのか。変な感じ。


この前考えていたことの続き。逆かもしれないと思った。この人にとっては覚えていられる程度には印象に残るものなのに、私にとってはそうでなかったのかもしれないと、私自身がその可能性に思い当たっている。言われるまではその視点を持っていないから、そうでない、なんてことはたぶんないんだけれど。相手は印象に残らなくても覚えておけるタイプの人なのかもしれないし。でも、自分の場合は引っかからなかったものは本当に残らないから。もっと手前の問題で、認識すらできていないこともある気がする。罪悪感に近い感覚かも。

引っかかる程度の何かを自分は見出だせていないという可能性。普通にあり得る。人から物を貰っても嬉しいとか、中身への興味を抱くとか、コストをかけてくれているんだなと思ったり、そのくらいのものしかない。相手がなぜそうしたか、というところを無理に考えてもあまり意味がないと思う。自分にないものは候補として出てこなくて、でもその理由が自分にないものである可能性はいくらでもあるから。自分と白紙どちらを基準にするかを決めているだけ。ただ、たまに自分の考えとの相違点から自然と引っ掛かることはあって、そういったものは覚えていることが多い気がする。数年経って反芻すると、いつの間にか別の捉え方ができるようになっていたり。でも、やっぱり似たようなことがまた起きても前提が異なるならよくわからないと思う。結局、自分から近そうなのか遠そうなのか、遠い場合はどのあたりにありそうなのか、ということくらいしかわからない。

どれだけわからなくても後々振り返ることができるのは記憶に残っているからであって。そうでないものについては、認識すらできていなかったか、引っかからずただ忘れてしまったか、心底興味がなかったか。いずれにせよ私にとっては「そこまでじゃなかった」ということがパッと思い付く候補で、その可能性に思い当たって後ろめたく感じるのかも。認識はどうしようもない類のものだけれど、それ以外はかける労力に糸目をつけなければ可能なライン(現実的には不可能)だから。とはいえど、記憶にないものの正体を確かめる術はなくて、ただただ心苦しい。