言葉と穴と。

ありのままの自分を肯定するということが、自身の感情や行動を抑制しない、ということを指しているのであれば、昔から意図的に逆のことばかりをしている気がする。行動の場合、外野を無視できなくなってから無意識をコントロールする方法を探して、そうして見つけた方法が禁止することだった。この言葉を言ってはいけないと言われても、感覚が無くてその理由が理解できないし、コントロールもできないから、それなら何も話さないことで目的を達成しよう、みたいな。白黒はっきりつける考え方、おそらく本質的にはこういうところから来ている。自分が自然と持ち得ない感覚について、程度とか存在しないんだよな。文語と口語、方言と標準語。最初は使い分けが理解できなくて、時と場合を無理矢理決めて、意識して分けるところから始めた。今でも話すときに使う言葉は、語彙が大幅に変化するような感覚がある。本音で話すか、関係性と場の定義に従って話すかによって。

今思えば、昔は単純に自分のことをどうこう言われたくなかっただけかもしれない。偶々自分の感覚は理解されづらいもののようで。声が聞こえなかったり、見えるはずのものが見えなかったり、どう頑張っても時間が守れなかったり。自分の感覚を伝えても否定されるから、考えを話さないことで解決しようとした結果、人間不思議なもので。そのうち自然と「口から出せなくなった」。特定の状況下で勝手にブレーキがかかって、言葉がつっかえて出なくなる感覚。主に「なぜ」と問われた時。自覚してから5年ほど経って、いつの間にか治っていた。ある程度自分の感覚を相手に合わせて伝えられるようになって、治ったのかなと思っている。私にとって○○はこういう点であなたの言う△△と似ている、とか。相手にわかる形に合わせないとわかってもらえないと考えがちなの、たぶんこのあたりからの癖だな。

昔はそんな感じだった。あれから15年ほどたった今、なんでまた話せなくなったんだろう。似ているんだよな、感覚的にあの時期と。受け入れられないと思っているから? 思ったことを上手く伝えられなかったから? 「なぜ白なのか」と尋ねられて、「春だから」とその場で答えられなかったのはなぜだろう。



期待をしているわけではないんだけれど、結果的にそう見られることが多い気がする。自然に獲得できていない感覚について、そこだけ穴が開いているように思いながら普段人と話をしている。基本その感覚を持っている前提で話されるから、文脈から形を推測しているけれど、たぶん本物は違っていて。それでも大抵持っている前提で話さないと会話が成り立たないので、相手に合わせて話すと、大きさとか質感とか形が皆まちまちだったりして。それってこういうものなんじゃないの?と自分が想定していたものとのギャップが生じる。

自分の中に感覚として持っているものであれば、「自分はこうだけれどあなたは?」と質問したりできるのだろうけれど。本当はそれを持っていない。そうなると相手に質問することでしか把握する術がなくなる。質問するポイントのあたりもあまりつけられない。答えにくいだろうことは理解しているけれど、でも無いものは無くて。こういうのってどうすればいいんだろう。持っている振りをしなければいいのだろうか。でも、それだと感覚が遠すぎて伝わらないだろうし、何より本当は自分に何が無いのかがよくわかっていなくて。それを持っている相手にどう伝わるのか、どう受け取られるのか全く想像がつかない。それでも伝わることを願って、自分の言葉で自分の感覚を話すべきなのだろうか。ただ話すだけなら頑張ることはできるけれど。

彼とも顔を合わせてそういった話ができたら、またちょっと違うのかな。自分は声からあまり情報を拾えないから、過度に相手の言葉を言葉通りの意味に受け取っているのかもしれない。

違う言葉で同じものを、同じ言葉で異なるものを指しているのかもしれないし、思考の過程は違っても結論は同じもしくは思考の過程は同じでも結論は異なるのかもしれない。昔から、真面目に考えれば考えるほどどうして人とコミュニケーションが取れるのか理解ができないので、たぶんあまり深く考えない方がいい。そんなこと、頭ではわかっているのだけれど。中々上手くいかないな。





どうでもいいこと。それでも、自分が感覚的に持っていないものを伝えてくれるのは言葉しかないから、何だかんだ言って言葉が好き。知らないものについて存在を知らしめてくれる程度だけれど、その程度のことにどれだけ救われたことか。自然に手に入らなかったものを、その穴を最初に埋めてくれるのは、いつだって言葉なんだよな。例え色も質感も細かな形もわからない透明な何かでも、それが存在していることに気付かせてくれるもの。自分にとっては。