気付き

何が原因なのだろう。寝ようと思い立ってからかれこれ30分ほど鈴虫の鳴き声のような音が鳴り続けていて困っている。たまにエアコンの音がどうしても気になって眠れない時があるが、音が鳴り始めてから即切ったエアコンが発生源ということはありえない。マンションゆえの空気が通る音だろうか。早く止まってほしい。


人の死を悼むということを一度しか経験したことがない。それも物心ついてすぐの頃で、あまり記憶には残っていない。大人たちがお箸で骨を移していたことは朧気に覚えているし、さりげなくそこに参加していたような気もする。いつも車椅子に乗っていた白い髪のあの人の姿と、お箸で掴んだその骨とが同一のものであることを当時どのくらい認識できていたのだろう。お葬式自体人がたくさん集まる謎のイベント程度の理解だったのだとは思うが。

今日の午後から実家に帰る準備を淡々と進めていた。飛行機や新幹線の予約を取り、万が一に備えて来週の仕事の引継書を作成する。その後家事を一通り終わらせて荷物を詰めている時に、普段の荷造りでは入ることのないそれらを見て思い出した。実家から出る際、これから機会が来るから身だしなみとして持ちなさいと言われて見繕ってもらった黒い服、革を用いていない靴及び鞄。自分の体型に合ったものを選んだため、着られなくならないように体型を維持しないといけないなと、試着時にぼんやり思った。それがたった2年後の今、体重が増えるような歳でもないのに、もう役に立とうとしている。可能性こそ認識していたものの、こんなに早く出番が来るなんて思ってもみなかった。

とはいえど、実際どうなるのかしら。神のみぞ知るといえど、明後日仕事に戻ったところでまた数日のうちにとんぼ返りになる可能性も高く。でも、帰るか帰らないかと電話口で尋ねられて、即決で帰ることを選んだ。一昨年の夏頃から、誰かに会いたいと思ったときに会っておくべきなのかもしれないとなんとなく思い始め、最近それは確信に変わりつつある。自分の性格を考慮すると会いたいと思えるのは今だけかもしれないし、現実問題として実行に移せるのも今だけかもしれない。そう考えると、年末に自分から友人たちに声をかけるのも、諸々手配するのも、元々あまり好きではないのに実行できるくらいには苦に感じなかった。天秤の傾きが変わった感じ。2月の帰省のときも同じ。

あの人が最後に遺していってくれるものはこの感覚になるのだろうか。あの日から、所謂コミュニケーションを十分にとる機会は終ぞ得られなかったが、今思うとその在り方自体が自分の、こと健康と結婚に関する考え方にかなりの影響を与えたことは間違いなく。大切なことへの気付きを幾らかもらっていたのかもしれない。気がつかないうちに。そんな関係性もあり得るのかなと、幼少期の記憶を辿りながら思ったり思わなかったり。


音が鳴り止んだので寝る。