訓練

ここ数日は一日置きに気分が浮き沈みしていたのだけれど、昨日から今日にかけて気分が晴れず、そのまま美術館に行くためにゆるゆると仕度をして出かけた。昨日衝動的に予約をしていた自分に感謝する。放っておいたら昨日のことを考えてどうせ気分が落ち込んでしまうので、気になったものや思ったことを素直に書き留めることをルールとして決めた。かつて知人に忘れっぽいという話をしたときに言われたこと。「日記をつけて思い出せるように訓練してみるのはどうですか?」ちょうどいい機会かもしれないし、やってみようと思った。思考がたくさん飛ぶから、メモ程度にでも書いたら考えていたこと思い出せるかも。ただし、プラスのことでもマイナスのことでも、なるべく思ったことはそのまま出力する。そうしないと書いているうちに忘れるし、なんとなく意味がないような気もして。自分が普段何を感じているか見てみるくらいの気持ちで気軽に。だからいつにも増して文章が雑。



初めは目的地まで徒歩で向かうことを検討したけれど、どうせ途中で迷うことを考えると時間が微妙で、おとなしく公共交通機関で向かう。できないことを自覚して悲しくなるからあまり時間は決めたくないのだが、入館可能な時間帯が指定されているから仕方ない。たぶんこういうところから気力が削られている。時間の感覚とか、事前に準備するとか、そういったものが自分には備わっていないから、予定を立てることはしんどい。一人で予定通りに動くことも、かなり意識しないとできなくてしんどい。自然状態だとあちらこちらに飛んでいく意識を、無理に繋ぎ止めているような。小学生でもできていることなのにな。こんなこと。

最寄り駅まで移動しながら、仕事のことを考える。仕事を始めてから思ったこと。自分が予想していた以上に周りの人々も意思疎通できていないのかもしれない。上司と先輩はなぜか上手くやり取りができていない。私も先輩とは少し合わないかもしれない。仕事で書く文章に無駄なものは一切入れていないつもりなのだけれど、勝手に言葉を落とされて取り違えられるから。私ができないだけで、世の中の人は当然皆色んなことができるものだと思っていたけれど、案外そうでもないのかもしれない。仕事というある程度前提が共通している場になって、初めてそう思った。プライベートだと前提が固まらなさすぎて、あまりそうは思えない。最寄り駅に着く。

プライベートも本当は同じようなものなら、無理に合わせようとしたり、誤解されないようにしなくてもいいのかもしれない。どのみち誤解されるときはされるだろうし。誤解されること自体はかなり嫌だけれど、そう思ったときに訂正すればいいし、他人のことはコントロールできないし。何より、そこに気がつけなかったとしても昔のような不利益もないのかもしれない。できることとしたら、相手の期待をコントロールしにいくことくらい? そうしないといけないのではなくて、そう思われたくない人にだけ追加で努力するという方向性だと少し楽かも? そんなことを考えていたら道を間違えた。

奥村土牛の作品を見ようと思ったきっかけは、山羊の絵だった。デフォルメされているのに、なんとなく触ったときの感覚がわかるような。動物の絵にそういうものが多くて、結構好きな雰囲気の画家だった。兎のくりくりとした目ともふもふの毛の質感がかわいい。あと蛤のころころ感。鹿の絵だけ若干違和感を覚えた。一番印象に残っているのが死体だからかもしれない。

帰りは徒歩にした。時間はいくらでもあるし(寄り道と方向音痴と電池残量との関係でそんなことはなかった)、あまりその土地に行くこともないから折角なので。まずはお昼ご飯を食べるためにカフェを探して向かう。道中で見かけた恵比寿プライムスクエア。雰囲気が近い場所を知っている気がして、大学時代に個人的に聞きに行った講演の会場だと気がついた。此花区あたりの名前は思い出せないところ。ちょっと過ぎたところの左手に墓地。年末のことを思い出す。あまり褒められたことではないかもしれないけれど、やっぱり墓地の雰囲気は落ち着く気がする。人がいないから? 期待とか、そういうものが一切無い空間。優しい気がする。そんなことを思っているとまた道を間違える。このあとめちゃくちゃ迷った。見えないところに道を作るのやめてほしい。私が悪いんだけれど。

一人だと好きに立ち止まって、好きに考えごとができるからいい。気になるものがあれば勝手にそちらに意識が向かってしまうから、人といると相手によっては気にしてしまってしんどいかもしれない。気にしなければいいのかもしれないけれど、そういった感覚のない人にそれをするとどう受け取られるのかわからないから。誤解されるのはつらい。


お昼ご飯。ワインのメニュー表を見ながら、昨日見た紅の豚を思い出す。昔は何もわからなかった記憶があるけれど、今見るとめちゃくちゃよかった。加藤登紀子の歌が良すぎる。さくらんぼの実る頃、大学の講義で訳したことを思い出したり。印象的だったのはジーナの台詞。「私、いま賭けをしてるから―私がこの庭にいる時その人が訪ねてきたら今度こそ愛そうって賭けしてるの。でも、そのバカ夜のお店にしか来ないわ。日差しの中へはちっとも出てこない。」「ここではあなたのお国より人生がもうちょっと複雑なの。恋だったらいつでもできるけど。」強い人だなと思った。彼女が賭けに勝ったかどうかは作中で明言されないけれど、なんとなく勝っていてほしい。

鮭のムニエル、ちょっとバター多めには感じたけれど、バルサミコソースと合わせたらいい感じにさっぱりしておいしかった。バルサミコ酢は結構好き。最近知ったけれど、ぶどうの濃縮果汁を熟成させたものらしい。おいしくないはずがない。自分で料理するときに使うのはハードル高いから、ちょうど良かった。それこそソースに使うくらいなら気軽に挑戦できるのかも。


お店を出て歩いていると手を繋いだカップルとすれ違うことが多くて、この間言われたことに思考が移る。何も思っていなくても手は繋げる。何を想定してあの例えが出てきたのかは全然わからなかったのだけれど、まあ私も確かに相手がそれを望んだからという理由だけでそうしたことはある。彼にはそういうことしたいとかないのかな。訊いていないからわからないけれど。そんな感じで考えごとをしていたら、あっという間に曲がるポイント。信号が青になった瞬間、待っているときに無意識のうちに体を揺らしていたことに気がつく。本当に嫌だ。コントロールできないけれど、落ち着きがないと言われたことがあるから、なるべくしたくない。でも、仕事はそう振る舞わないといけないとして、プライベートって本来そんなこと考えなくていいはずなんだよな、たぶん。昔注意でもされたのだろうか。いつの間にか次の曲がるポイント。折角歩いているのに、考えごとが始まると景色も何も目に映らない。うーん。なんとなく、しんどいかもしれない。もう少し器用になりたい。

高架下を歩く。暗い方が好き。というか、眩しいのが苦手。夜の部屋の電気とか、音楽室の電気とか、人工的なそういうもの。日光も明るすぎるとしんどい。木漏れ日は優しくて好き。そういう意味で高架下もわりとほどよくて落ち着くかも。上を見ながら歩いていたら、サッカーやキャッチボールの練習をしている人がいたみたいで、近くのフェンスにボールが当たった。めちゃくちゃ音が怖い。気がつかなかった。

いつの間にか南麻布。お寺の門から梅の花の蕾が見えて、こっそり覗いてみる。奥の建物の入り口の扉が朱塗りでかなり変わった見た目をしていた。京都のお寺は古く歴史を感じさせるものが多いが、東京のお寺は変わったモダンな建築も多い。これはこれで面白いなと最近思っていて、大抵開いている門から覗き見たりする。傍から見たら若干怪しいかも。梅をよく見ると既に花が咲いているものもあって、今日見た梅の絵を思い出しながら歩いていたら植え込みの葉っぱに引っかかった。悲しい。その後歩道橋を渡っていると、ふと足元が覚束なくなったような感覚がして、急に怖くなって立ち止まってしまう。階段を下りているときもたまにそんな感覚がする。

そこそこ時間が経って、空の色がほんのりと染まってきたことに気がつく。京都で阿闍梨餅を食べたあとに見た空の色もこんな感じだった。真っ赤な夕焼けとか、日の出とか、青い空も綺麗だけれど、個人的にはこのくらいの淡い色の夕焼けの空がとても好き。うっすらと丸い月も見える。歩いていると東京タワーが近くにあることに気がつく。その他、突然現れた謎のお稲荷さんにお詣りしたり、気が付かずにホテルの敷地に入ってしまったり、石垣を見たり、変な音がする茂みに目を凝らして謎の動物を見つけたり。


そのあたりまでは楽しくもあったのだけれど、日が暮れて夜になるとめちゃくちゃ気分が落ち込んでしまって終わってた。途中で歩くこともしんどくなって、10分ほど座ってぼんやりして、また歩き出すみたいな。こっちが素なんだよなって思ったり。別に人と話すときも笑ったりなんてしない。ずっと無表情でいていいならそうするけれど、怒っていると誤解されたりして、その方が嫌で。でも口角だけ上げることがどうしても無意識にできないから、相槌代わりに敵意がないですよって示すために笑ってる。(勿論素で笑っているときもある。)直接話すのもマルチタスクができないから苦手で、だから笑って誤魔化して、話を聴くことだけに集中している。話を聴きながら考えると、いつの間にか聞こえなくなって中身が一部欠けてしまうから。聞くこと、考えること、話すこと、全部使う頭の箇所が違っていて、実はかなりのフル回転をさせないとちゃんと会話するのは難しい。文章のやり取りが好きな理由のうち、一番大きなものはたぶんそれ。あとは、真剣に聴いたあとに考え込んで黙っていると、何考えているかわからないとか、何も考えてないでしょとか言われたことがあったりして。予めそのことを説明しておけば、本当はそんなことしなくてもある程度理解してもらえるのだろうか。でも、マルチタスクが元からできる人には理解し難い感覚であるようにも思う。気軽に話してみればいいのかな。

喜ぶとかもそう。なんかよっぽどのときでないとあまり表情に出ないらしい。元彼は贈り物が好きな人で、何かもらったときにありがとうと告げても、いつもなんか微妙な表情をしていた。なんてことのない行動でも、ありがとうと言ってもらえたら嬉しく感じられることに私はあの人のおかげで気がついて、自分がそう思ったときも素直にお礼を言えるようになったんだけれど、当の本人にはあまり伝わらなかったみたい。唯一言われたのは牡蠣を食べに行ったときだった。嬉しそうと言われて、まあ牡蠣好きだから嬉しいけれど、でも何かしてもらったときも嬉しいに感情が振れたからお礼を言っていたわけで。都度オーバーに反応してもいいけれど、まあ疲れるのは疲れる。人と関わるの難しい。

正直外からどう見えているかなんてどこまで考えてもわからないし、周りに話しておいた方がいいのかな。というか、(メモに書いていることは他にもあるが、)歩いていてなるべく思ったことを文字に起こしてみて初めて気がついたけれど、もしかすると常に気を張っていて結構限界に近いのかもしれない。書いてあること八割方しんどいと怖いと悲しいになってない? 思い起こせば年末彼の前ですら笑っていた気がするし(普通に笑っていた部分もあるにはあるが)、プライベートから無理矢理にでも一度素に戻してみた方がよかったり?

あとは、彼のことを結構誤解していることが多いみたいで。改めて自分はされるとめちゃくちゃ悲しいことがわかったからなるべくそうしないようにしたいんだけれど、どうすればいいんだろう。どれだけ訊いても中々理解できなかったり、誤解してしまったりで、申し訳なくなってくる。