2023.10.08

高校生のとき、クラスメイトがある動画を見た感想を大声で口にしていて、それを周りの仲のいい人が窘めていたことがあった。私もわりとその話を聞きたくなかったため、注意してくれた人に対して感謝していたが、当の本人は何も理解できていない様子に見えた。

ただ、なぜ咎められるのだろうか。大多数が不快に感じるからといって、少数の何も感じない側にいる人の言葉を封殺してもよいものだろうか。どちら側にいるのかは、単なる偶然でしかない。当たり前のようにタブーとされていることは、なぜタブーなのだろうか。本来的には理由を考える必要もなくタブーであり、その理由を考えていること自体が感覚として少しずれているのだろうか。色々疑問が頭をもたげて、しばらく考えていた記憶がある。時折、窘められている理由をまったく理解できていないであろう彼女の表情を思い出す。私も同じだった。周りの人の行動はたまたま私にとってもありがたいものではあったけれど、その理由まではわからなかったから。

今朝、ニュースを見ながら思索に耽っていると急に答えらしきものが出てきた。個々の人間の受容できる刺激には限度がある。それが、いずれは現実として受容せざるを得ないものだとしても、知った方がいいことだとしても、自分のペースで受け入れることができないと精神状態が悪化したり、心の傷になったりする。だから、彼女の他者の心情に配慮しない行動を周りは窘めた、ということだと思う。10年ほど心に残っていた割には、答えはシンプルなものだった。