感覚

昨日うっすらと眠気を感じながら書いた文を、これまた眠気を感じながら朝に眺めていると、思いの外色んなことを知ったんだなと思った。過去の私からは随分遠いところにいる気がする。理解できないものを、白か黒かですべて区切って理解しようとしていたあの頃と比べると、少しばかりスペクトラムに近付いたような。昔はより一層のこと、矛盾なんてあってはならないと思っていたからはっきり分けていたのに、その法則から外れた新しいものがいつの間にか根付いている。いつ頃どこの誰から貰ったものなんだろう。


過去に読んだ本をもう一度読み直すときと似た感覚。ジャンルにかなり偏りはあるものの、6歳頃から文庫本をある程度の数読んできたと思う。その中には何度読み返しても理解できなかった話が数多くあった。言葉を単語で区切ってみると、個々の意味は辞書を引けば理解できる。でも、なんとなく感覚的に自分の中に落ちてこない。感覚的にわからないから、辞書を引いたうえでもう一度言葉を繋いで文にしてみる。やっぱり何が言いたいのかわからない。今でも読書はこういうことばかり。

感覚的にわからなくても、一般的には、辞書の意味さえ理解できればなんとなくそれで上手いこと読めるのかもしれない。だから、たぶん苦手なのはその部分。そこに書かれていない、抜け落ちているものが想像できない。これも想像力の欠如によるものなのかもしれない。本当に頭でも感覚でもわからないものを提示されると、もっと酷い。想像で埋められないどころか、何が欠けているのかもわからない。
イメージ的には複数人での会話がわかりやすいかもしれない。複数人の会話では、誰が誰に対して話しているのかなんて誰も言葉にしない。おそらく敢えて言う必要がないのだろう。大抵の人はそんなことをしなくてもわかるから。私はそれがわからないときが多々ある。

自分が文章でのやり取りを好むのは、このあたりの性質が関わっている。わからないものをわからないで済ますのはそれはそれで嫌で。対人関係だと意味の取り違えが致命的な誤解を生むような気がするから。だから、言葉だけを切り取ると、ある程度正確に受け取れるのは文章。見直して、丁寧に欠けた部分を想像しようとすることができる。わからない箇所を正確に指し示すことができる。何が自分の感覚と違ったのか学習もできる。とはいえど、非言語的なコミュニケーションでしか伝わらない部分も無論存在するとは思っているから、あくまで言葉だけを念頭においた話。直接会って話せるのであれば、そちらの方がいい。1対1で気心知れた相手と話す場合であれば、それでも何とかなる。

昔読んだときに誇張抜きに何もわからなかった本をここに来て改めて読むと、すんなりと意味がわかるときがある。最近はこの感覚が好きだから、本を読んでいるようなところがあるくらい。
当時のことは覚えていないが、おそらく文庫本を読み始めたときの私にとっての読書は、現実から自分を遠ざけてくれるものだった。書かれている物語の中に連れていってくれる。意味がわからなくても別にそれ以上でも以下でもない。気が向かなければ、言葉を受け取ることを放棄してそのまま次に向かってもいい。気が向けば、わかろうとして辞書をひたすら引いて挑戦してもいい。また、それも自分に理解できる言語で書かれているから可能なこと。日中に会う人間すべてが自分と異なる言語をもとに動いている世界で、それがどれほどの慰めになっていたのかは想像に難くないし、はまった理由もまあわかる。
そんな読書が、今では自分そのものを認識できるものとしても楽しめているという事実に、たまにふと思い当たり、不思議に思う。自分の変化に自分で気付く道具としての側面。そのせいか、昔ほど物語に入り込むことはできなくなった気はするものの、新しい観点が入るというのはおそらくそういうことで。失った純粋な何かを惜しみつつ、これはこれで楽しいから、たぶんそれでいい。


自分に根付いたものが誰かに貰ったものである、というのは正確ではなく。自分の中で突然発生しているだけ。さりとて、他人から貰ったという表現が誤っているわけでもなく。そのきっかけを他人に与えてもらっている。覚えていないものの方が多いけれど、明確に覚えているものもある。ぱっと思い付いた人で3人ほど。そのうちの1人は最後に会ったのが成人式のときだから、もう4年前か。となると、親しくしていたのももう10年ほど前のこと。元気にしているだろうか。

普段頭で考えたもので覆っている分、無意識のうちに蓋をしていることもきっとたくさんある。
異性に興味を持つことができない原因の1つはおそらくそこにある。今でも、何かしら自分が知らず知らず設けたものを無理やり外されるような、決定的な外的要因がないとその可能性に気が付けない。そういった意味で、彼が意趣返しに発した冗談は、言葉選び含めて100点満点だった。でも、偶然でもいいから自覚して、それをそれと認めていいと思えている以上、昔と比べると勝手に課している何かも減っているのかもしれない。
まあ女性の見た目にめちゃくちゃ好みがあるのに、男性に対してはそういったものが思い当たらないから、元から感覚がかなり希薄ではあるとは思う。


これは比喩だけれど、感覚的に分かっているものには色がついていて、頭で考えている部分は白か黒のどちらか、みたいな。でも色のわかるものだけが私にとっては本物だから、こちらで動いてしまうのが素の私。例えば、折角のお出かけでも興味本位で墓地を歩いてしまったりする。あまりにも自分に正直だと、ずれていて受け入れられない可能性が高いので、普段は頭で白黒に分けたものを使ってそれっぽく振る舞っている。勿論、感覚的にそれが白色もしくは黒色だとわかっているものもある。とすると、白黒というより、そもそもの色がないと言った方が近いかもしれない。色のないものをわかろうとして白と黒に分けてみたり、それすらできなかったものは無色のまま。
思考と感覚。相容れないものが混じっているから、自分の中にあるものを正確に人に説明するのはとても難しい。ともすれば、頭で考えて話しているか自身の感性で話しているかによって、時と場合が同じでも真逆のことを言っているように見えるのかもしれない。でも、それも傍から見ると、気分の波によるものと区別がつかないかも。

頭で考えてできた部分は、無理やり増築した歪な建築物のようなもので、私の感性に反していたりする。本当は逆で、元々が歪なのかもしれないけれど。合わないことをするのは疲れるから、そんなことをしなくてもいいと思い続けられる場が1つでいいから存在すればいいのにと、なんとなく思ったり、思わなかったり。
最初はどうでもいい場だから自分の感性に従って動いて、そこで一緒にいるものの中から何かしら大切にしたいものを見つけて、そうすると途端に素のままではそれを大切にできないような気がしてきて、頭で考え始める。人の気持ちわからないのに。そうでない場合もあるけれど。


書くのも4回目になって速さ重視にしてみたら、なんとなく雑になった気がする。でも、文字にしてこれだから、普段だともっと行ったり来たりしている。さらっと読むと何が引き金になって次の話題に飛んでいるのか、自分でも一瞬考えないといけなくて面白い。他の人なら尚更のことだろう。でも自分はわかるし、人に向けて書くものでもないから。何より、ただでさえ入力に時間を取られているのに、まとまりまで考えると何を考えていたか忘れてしまいそう。だから、このくらいでちょうどいいのかもしれない。直感。続きは仕事が終わってからにしないと。