指を切る

よく切れる包丁を取ってほしいと頼まれ、人に渡そうとする。相手が取りやすいようにシースのボタンを予め外して柄を向ける。そうして相手が包丁を手に取り引き抜いたその瞬間に、シースを持っていた私の左手の親指が切れた。
なるほどな、と納得した。自分にとっては良かれと思って取った行動だった。刃先が指に当たるという単純なことにさえ気が付かなかっただけで。痛みのあまり思わず声が出た時の相手の表情が忘れられない。自業自得で、負傷したのも私なのに、なんとなく相手の方が痛そうなくらいで。その後何度も謝られた。

どうやら自分は注意散漫で想像力が欠けているらしい。今回は後者が原因。電柱にぶつかる、電車とホームの間に両脚を挟む、壁にあちこちぶつかる、そして包丁で指を切る。非常に私らしい。年の始めからこんな感じなのはいただけないが。

痛みは確かにあった。でも、それよりも先に予想外だったはずの事態にすんなり納得した自分がいた。ただルールを認識して、学習している自分。シースごと包丁を差し出すと、構造上指を切ってしまう可能性が高い、それだけ。たまに似たような経験をする。例えば、ホッチキスを指に刺してしまったときの驚き、採血をしたときの力が抜けていく感覚、手術のため頭皮に部分麻酔をしたときの痛み。適当に例を挙げたら物理的に痛いものばかりになってしまった。兎にも角にも、自分が立てた予測と異なる感覚・ルールを見つけたとき、それが痛みを伴えども確かに心のどこかで喜びを感じているのだ。

わりとポジティブに捉えるようにしていたものの、これは現実逃避の一環なのかもしれない、と疑い始めたのは12月に映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観たのがきっかけ。その映画には、度々ある描写が出てくる。主人公のセルマがミュージカルのような歌と踊りの空想に耽るという描写。工場で勤務している場面、好いている相手に視力を失いつつあることを悟られる場面、工場をクビになる場面等…。どの場面でも現実は厳しいもので、彼女も楽しんで空想に浸っているわけではなく、本質的にはどうにもならない現実からの逃避であることが徐々につまびらかになっていく。(それはそうと色んな意味ですごい映画だった。二度目はないかもしれないが、個人的にかなり好き。)

この作品を観ながら真っ先に感じたことは、主人公の逃避方法に対する共感。正直心当たりがありすぎてしんどくなり、何度途中で映画館から出ようと思ったかわからない。本当にどうしようもない現実から目を逸らすためには、本来意味のないものに意味を持たせることが有効であることを私は感覚的に知っている。セルマは現実を受け入れるため、周りから聞こえるリズムや音をもとに空想の世界を創りあげた。自分にも覚えがある。例えば6歳頃に仕事終わりで疲れた親に(今思うとそこそこ理不尽な理由で)怒られたときの言葉をきっかけに、自分の存在価値を疑ったときのこと。例えば、9歳頃(似たようなことがしばしばあって正確には覚えていない)に怒られた理由もろくに理解できずに壁に向かって1人で長時間にわたって正座をさせられて、ひたすらフローリングの木目を数えていたこと。困ったら何かしら状況に応じてルールを定める。納得しようとしたり、痛みから気を逸らしたりするにはそれで十分。何もわからないのが一番怖い。改めて振り返ってみるとかなり昔から(無意識にではあるが)そういった傾向を持っていたことがなんとなくわかった。当時の自分は現実を受け入れる方法をそれ以外に見つけられなかったのかもしれない。

一応親を擁護しておくと、私はおそらくあまり人の気持ちがわからない方で、当時の親としても扱いに困るところがあったのだと思う。今でもよくわからないので、小説などで考え方を学んでそれっぽく振る舞っているようなところがある。見えないところでは皆そんなものなのかもしれないが。また、小学校低学年のときは海外に住んでいて、そこそこ大変だったのかもしれない生活を送っていた。親はストレスのあまり血尿が出たらしい。家族皆それなりに限界だったのだと思う。この時期の話も、いつか掘り下げてみるといいのかもしれない。人に話すときには努めて楽しかったことだけを思い出そうとするのと同じように、普段忘れかけている最悪の日々も思い出せる可能性はある。

話が脱線した。何はともあれ、ルールを定めて納得することには1つ欠点があって。フローリングの木目を数えて逃避するくらいならいいのだが、相手の行動原理に対してルールを定めて納得しようとすると途端に厄介なことになる。相手からこういうことを言われた、しかし自分にはなぜそれを言われたのか理解できない、相手はこういうルールで動いているのかもしれない、それをもとに相手の行動原理を推測してこちらも動いてみよう。初めは上手くいったのかもしれないが、そのうち上手く機能しなくなってくる。まず、そのようなルールをすべて覚えておくことは不可能。それに、そもそも人間に対して同じ問いを投げかけても常に同じ答えが返ってくるわけではないし、その時どういった心の動きが発生しているのかは、本人にしかわからない。何なら本人にすらわかっていないのかもしれない。でも、自分にはそんな簡単なこともそうだと意識するようにしないとわからなかった。
推測して確認し、間違っていたら都度修正していくしか相手のことを知る術はないと思っていたのに、どうやらそれではだめらしい。一度自分の考え方が原因で相手を怒らせてしまったことがある。確か、そんなことは考えていないのに決めつけられるのは悲しい、みたいなことを言っていた気がする。私はその言葉の意味がまるで理解できなかった。ただ、自分が大切に思っている人にそんなことを言わせてしまったことを悲しく感じたのは覚えている。それならこの方法に意味はないどころか、逆効果なのかもしれない。

ぼんやりと指から流れ出る止まらない血を眺めながら、そんなとりとめのないことを考える。こんなに何もわからなくても生きているんだなってなんとなく思う。わからないなりに思考しているつもりなのだが、これももしかすると現実逃避の一環なのだろうか。
毎日毎日眠れない中悩んで、11月にとうとう言われた。そんな風になるならもうやめた方がいいんじゃないか、みたいな。それだけは言ってほしくなかった。自分は彼のことが好きだし、そんな軽い気持ちで彼にそれを申し込んだわけではなかったから。しんどくてもなんだかんだ楽しんでいるという趣旨で答えながら、なぜ決めつけるのかと今度は自分が疑問に思ったくらい。でも、実際のところどうなんだろう。8月末からの彼との付き合いの結果、自分が正負どちらの感情も新しく獲得し続けているのは間違いないし、そのことが面白くて興味深いとも感じている。だとしても、こういった部分に着目していること自体が既に現実逃避の一環だとしたら。

そこまで考えたところで、ふと、意図せず私の指を切ってしまった瞬間の相手の表情を思い出した。こちらが痛そうに思ってしまうくらいの表情を相手にさせた原因は、紛れもなく自分の安易な行動で。
私は通話と文章のみのやり取りからそれ以外の要素を全く想像できなかったのだが、ああ言わせてしまったあの時の彼も、もしかすると同じような表情をしていたのではないだろうか。そうだとしたら、申し訳なく思う。こうやってまた考えていることも決めつけに当たるのだろうか。何をもってそう言われたのか、本当のところはまだよくわかっていないから、定かでない。思考の癖はある程度把握できているものの、人の気持ちがよくわからない自分でもできる人付き合いの方法が何かしら存在するのだろうか。あっさりとは答えの出ないことを考えたり、考えなかったり。そんな年始。